日本の働き方が唯一無二ではないと思い知った2年間

fijisyasin

私は28歳で入社し、30歳で会社を辞めました。

非常に仕事量の多い職場で、残業も多かったですが、1年目は無我夢中で頑張っていました。
新しいことを覚えるのも必死でしたし、雑用も新人の仕事なので、かなり多忙でした。
時には嫌になることもありましたが、学生時代に比べると新鮮な体験ばかりで、人生が加速していくような快感がありました。
道は正しい。このまま走り続けたら今より良い未来にたどり着けると単純に思っていました。

2年目になるとある程度仕事も覚え、もう少し冷静に自分と職場の関係を見つめることができました。
相変わらず忙しい毎日でしたが、このままここで頑張り続けることに疑問を持つようになりました。

理由の一つは先輩たちが自分よりも激しく働いていることでした(他には取引先がエラソーで頭にきていたなどもありました)。
できることが増える分、仕事も多くなるので、必然的に仕事時間は増えます。
しかも10年目ぐらいで管理職になるので、先輩の多くは残業代なしで働いています。
つまりほとんどサービス残業で深夜まで働いていました。

いったい何が楽しくて生きているのやら。私はそれが当然であるという職場に違和感を感じていましたが、先輩たちは文句も言わず黙って頑張っていました。高度経済成長期のモーレツ社員とはこういう人たちだったのかなと思います。まさにThe日本のサラリーマン、という感じでした。

このままこの会社で働き続けると、先輩のようにどんどんしんどくなっていくのだろうと思うと、急激に気が重くなりました。
彼らの超人的な働きぶりには敬意を持っていましたが、自分がああなるのは無理だと徐々に思うようになりました。

道は間違っていたのか。毎日出社しつつも、この先の身の振り方を悶々と考え続けました。
2年目の秋頃、ふと学生時代に考えていたことを思い出しました。
当時青年海外協力隊に参加したいと思っていたので色々調べていたのですが、学生では経験もないので無理だと諦めていました。
しかし、多少なりとも会社員としてその分野の経験を積んだ今なら参加できるのではないか?

それはある種行き詰っていた現状の出口でした。そこをくぐり抜ければ本当のより良い未来が待っていると思うと気が楽になりました。

一方、青年海外協力隊に参加をするということは会社を辞めることを意味します。
正直、少し未練はありました。忙しい職場でしたが、給料は悪くなかったし、業績も地味ながら安定してるし、そう悪い会社でもないかなあと、辞めるのがもったいないような気もしました。
また、辞めたとして、年齢・経験的に、青年海外協力隊で2年間ブランクがあくと、帰ってきた時にまともな就職先がないかもしれないという不安もありました。

しかし、結局は先のことはあまり深く考えず、参加することを決めました。
まず、当時いちばん仲の良かった先輩にそのことを話しました。すると、意図せず上司にそれが伝わってしまいました。
いつか上司にも話さなければいけないことですが、その前に上司に呼ばれて、話をすることになりました。

青年海外協力隊にも試験があって、それが春と秋の2回あって、私は次回の春募集を受ける、合格発表は8月だが、そこで合格がわかると会社を辞めると言いました。
試験に落ちると会社を辞めないわけですが、上司としては辞めるのか辞めないのかわからない部下は扱いにくいと思うのは当然です。重要な仕事を任せて、途中でやめられると困ります。
そういうことで、3年目は固有の仕事を任されませんでした。忙しい先輩のヘルプや雑用ばかりやっていました。
残業もなく、先輩どころか後輩も深夜まで頑張っているのに自分だけ定時上がりです。
楽でよかったですが、客観的には完全に干されている状態でした。

そして8月、試験の結果、「合格」でした。私はフィジーという、南太平洋にある小さな島国へ行くことになりました。
これで晴れて青年海外協力隊への参加と、会社を辞めることが決定しました。

上司に伝えると、すぐに退職までのスケジュールを組むように言われました。
青年海外協力隊の事前訓練が年明けから始まるので、退職日は年末最後の日としました。
年休・代休がかなりたまっていたので、11月ぐらいから会社に行かなくてよいことになりました。

その11月頃、私が自分の机を整理しているのを見て、私が退職することを知った人もいました。
干されていたので別に不思議ではなかったと思いますが、青年海外協力隊に参加すると伝えると、なるほどねー、頑張ってね、という感じでした。
みんな真面目で良い人達だったのですが、やはり毛色が違うというか、私は別人種とカテゴライズされているようでした。なので私がどうしようが、あまり興味はないようでした。

そして年末。
お世話になった社員にお礼を言って、無事退職しました。
なお、会社を辞めるかもしれないと伝えてから、一度も引き止められることはありませんでした。
私がデキる社員なら引き止められてなかなか辞められないことになってたかもしれませんが、幸い(?)そうではなかったのであっさり辞めることができました(笑)。

派遣前訓練

青年海外協力隊員として任国に派遣される前に、70日ほどの訓練を受けなくてはなりません。
私も年明けから長野県の駒ヶ根市にあるJICA施設で約200名の仲間とともに訓練を受けました。
主に語学の勉強でしたが、任国事情や国際文化などの講義もあって楽しかったです。一日中勉強なので学生時代に戻ったようで新鮮でした。

隊員候補生は個性的で自由人っぽい人が多かったように思います。私のように会社を辞めて来る人も多かったです。
案外と自分と考えの近い人も多かったのが心強かったです。
職場では同期を含めて仲の良い人は少なかったのですが、ここでは多くの仲間ができて青春が戻ってきたような感じでした。

70日はあっという間に過ぎて、3月末にフィジーへ派遣されました。

フィジー人の労働観

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フィジーで私は廃棄物の減量化を推進するための活動をしていました。
勤務先は市役所でした。

市役所へ赴任した当初。
始めはすることもないので、部内の文書などを読んで情報収集していましたが、横目で同僚たちの行動をチェックしていました。
朝来て新聞とか読んで、だらだらして、10時にお茶のんで、それからようやく仕事開始。
12時に昼休み、1時から午後の仕事ですが、暇な時は寝てる人もいます。
そして4時に仕事終了、というか早い人は3時にはもう職場にいないような…。

私も始めの頃はなんにもしてなかったのですが、誰も気にしていないようでした。職場には何もしなくても許される雰囲気がありました。

しばらくして、私も仕事をすることになり、彼らと一緒に働くことになりました。
彼らと一緒に仕事をする中でより深くフィジー人の労働スタイルや労働観も分かってきました。

まず、絶対と言っていいほど仕事よりも私用重視です。自分を犠牲にして仕事をするということはあり得ません。
二日酔いとか、ちょっとしたことでも簡単に仕事を休みます。そしてそれが周囲から許されます。なぜならみんな同じように休むからです。
日本は自分に厳しく他人にも厳しい人が多いように思いますが、フィジーは逆に自分に甘く他人にも甘いです。良く言えばおおらか、悪く言えばいい加減ですが、日本の会社員の働き方に疑問を持っていた私からすれば、フィジーのあの職場は居心地が最高でした。

市役所だけでなく、他の仕事をしている人もほとんどそんな感じです。
中学・高校の先生なんかも、生徒のことは考えないで平気で授業を休むので、よく授業は中止になるそうです。
日本だと絶対にクレームが来ますが、フィジーでは生徒もそれが当然と思っているようです。

しかし、彼らもやる時はやります。一応、どんな仕事にも締め切りはあるのですが、基本的にそれは無視ですね(笑)。それを過ぎて本当にヤバイ時期になると猛烈に仕事をして短時間で終わらせます。そして終わらせると元に戻ります(あの状態がずっと続いているのが日本のサラリーマンだと思います)。

だから何とかフィジー社会は運営できています。色々問題はありますが、破綻することなく現在に至っています。

別にフィジー人の働き方が正解で日本が間違っているとは言いません。実際、日本人がフィジー人の真似をすると、GDPは数分の一になって経済的に苦しくなるでしょう。しかし、日本人も自分の働き方唯一無二のやり方ではないことは知っておいて欲しいと思います。

日本スタイルだけでなく、フィジースタイルなども認知されて、より多様な働き方が社会で認められたら素晴らしいと思います。
仕事にやりがいを感じてバリバリ働くのもいいですが、それしか選択肢がなかったり、あるいは他人にそれを強制するのはやめて欲しいですね。

プライベート一番、仕事は生活費を稼ぐために最低限しかやらないという生き方も、仕事第一主義と同じぐらいに認められて、それぞれが堂々と生きていける社会が望ましいと思います。


2年が過ぎ、フィジーから日本に帰ってきました。
私はもう、フィジーの楽すぎる労働スタイルに慣れてしまって、日本で会社員として働くことは無理だと思いました。
逆に会社の方も私のような人間を受け入れたら足手まといになるだけでしょう。
なので、私は自分でワークスタイルが選べる自営業という道を選びました。

その後の顛末はまた稿を改めて書きたいと思います。